神の存在 T・U・V・W・X・Y・Z・[・\・]

       

HOME入学要項ー素晴らしい学校教育方針と学校設置趣意書春うらら−印旛沼公園のお花見− 16・4・7神の存在時任学園中等教育学校@nifty緑の牧場


 神の存在 その]

 
神の存在−その(])

近頃「でじたる」という言葉がはやってきました。
この世の情勢にうとい人は今迄この言葉を、意味も分らずに聞き流してきたのですが,
いよいよこの言葉の意味を知らないと恥をかく時代になってきたようです。
 「パソコンなどは二流の人物に任せておけばよい。一流の人物は本を読む」とか言ってパソコンを敬遠してきた時任先生もついにパソコンに手を出さざるを得なくなったのです。
それで一昨年の夏休みにパソコンを一台買ってきて使い方の研究を始めたのです。
時任先生の弁解の弁は次の通り
「公害を撒き散らす車は使わない方がよい。 しかし車が無いと不便で生活できない。
車は必要に迫られて止むおえず使うのです。パソコンも同じで必要に迫られて使うことになったのです。最近は教科書の無償配布、財務報告、その他の連絡などインターネットを使うものがどんどん増えて、これらをいちいちパソコンのできる先生に頼んでいたのではやり切れません。それに決定的なことは、高等学校で情報科という教科が出来てこれが必修教科となったことです。しかも情報の免許を持っていた先生が退職されることになってしまったのです。」
パソコンを使う人が、でじたる、デジタル、digitalを知らずにいることはできません。
皆さんごぞんじの通りデジタルに対応する言葉がアナログ、analogです。
デジタルとは、「粒々で連続していないもの」。アナログとは「連続しいているもの」と言う意味です。 分らなくなったら時計を思い出してください。針の位置で時刻を読み取るのがアナログ時計で、数字が出てきて時刻を示すのがデジタル時計です。
 数学で言うと1,2,3,4、・・・・・の自然数はデジタルで、計算尺はアナログということになります。
 前置きが長くなりましたが今回の主題はデジタルとアナログです。
 人間にとってデジタルは扱いやすく、わかりやすい量なのです。なぜかと言うと,
例えば、リンゴが七個あって7人で食べるとすると一人1個で、リンゴ1個の大きさは少しずつ違っていてもあまり文句は出ません。大きさが明らかに違っているときは別として、このリンゴは少し大きいから、少し削って、小さい隣のリンゴにくっつけてやろうということはしません。 それがチーズであって1本のチーズを七人で分けるとなると簡単には行かないのです。物差しで測るときに目盛りはどこにうちますか。1/7は少数にするのが難しいでしょう。 皆さんは平行線の定理を使って七等分することが出来ることを知っていますから、技術的な問題は別として正確にやろうと思えば出来るのです。 ところが平方根、立方根、 等は目盛りさえ打てないのです。切断しようと思っても、目盛りを打とうと思っても打てないので正確に切断できないのです。 このような切断を、切った場所が正確に解らないので、無端切断と言います。 つまりこれが本当の意味でのアナログで何処まで細かく調べても切れ目の無い連続体なのです。
 もう一つ例を挙げてみましょう。
 水の中に大豆を入れたとしましょう。そうすると大豆と大豆はデジタルな存在であることは誰の目にも明らかでしょう。そして水はアナログな存在なのです。
 科学の無い時代には、お話はこれでめでたく終了です。 しかし科学の進歩は、水が本当の意味でのアナログではないことを突き止めたのです。 水を細かく分けていけば最後は、もうこれ以上は細かく分けられない、これ以上細かくすると水ではなくなってしまうと言う限界に達します。 これが水の分子でその大きさまで解ってしまったのです。そして水の分子が2個の水素原子と1個の酸素原子から構成されていることも解って、水がデジタルであることが解明されたのです。
 「それでは、粒々の水の分子の間に何があるのかな?」と考えた人は居ませんか。 若し居たとすれば素晴らしいことです。このように考えることが学問の進歩につながるのです。
粒々の水の分子の間には可成りの隙間があって、この隙間には色々な物質が入りこんで行くことが出来るのです。 
所謂塩が入り込むと食塩水になったり、金、銀、銅、鉛。亜鉛 等の金属やその他の非金属 等また化合物 等殆どの物質が入り込むのです。 海水中に含まれる金の総量は莫大なのです。若し金に限らず海水中に含まれる物質を手軽に取り出すことができたら、人類は皆仲良く暮らしていけるでしょう。 そのように考えると海水は貴重なものを蓄えることのできる巨大な倉庫と考えることができるのです。この巨大な倉庫が抱える空間とは一体何なのでしょうか。 物質が無いのですから真空と呼ぶことにしましょう。 
 真空とはなんでしょうか ?
 さて、お話を先へ進めましょう。 水を分解すると水素と酸素の原子が現れるのです。これこそ粒々のデジタルの親分です。 そしてこの原子と原子の間に何があるのでしょうか。 何も無いのですから真空でしょう。 そしてこの一つ一つの原子がどのようなものなのか科学者がこれを教えてくれました。 原子には原子核と言うのが中心にあって、その周りを電子が回転していると言うのです。 丁度それは太陽の周りを地球が回転しているように !・・・考えてもみてください。 大きな、大きな,広い、広い隙間だらけではありませんか。 斯くのごとくして、宇宙はマクロ(大きいこと)の世界から、ミクロ(小さいこと)の世界まで、隙間だらけの粒々の世界なのです。
 ところが、科学の歴史を紐解くと解ることですが、科学者はこの隙間に何かが充満しているのではないかと考え始めたのです。 何故そのように考えたかと言うと、光は波動であるのに真空中を伝わるのは理屈に合わない。何か光を伝える物質が真空と考えられているところに存在するのではないか。この物質にエーテルと名付けて研究することになったのです。(化学物質のエーテルではありません)
 皆さんは、音が空気を媒体として伝わる波動であることを知っています。この現象を光に当てはめて理解しようとしたのです。
 さて、波動はアナログのチャンピオンです。波は連続していて粒々ではないと思われるからです。 そしてもう一つアナログの大親分は時間と空間なのです。
 科学者がエーテルと光の関係を研究している間に色々なことが解ってきました。光が粒の性質も備えていることが解って来たのです。つまり光は、エネルギーを運ぶ一つの現象であり、波動に見えたり、粒子に見えたりするのです。 皆さんはトカゲが自分の命に係る緊急事態のときはしっぽを捨てて逃げていくことを知っているでしょう。逃げたトカゲは生き延びて、元のトカゲになりますが、しっぽは死んでしまって消えるのです。光が波動の時、この波動に鋏を入れて切断しようとすると光は即座に反発してサイクルの切れ目で切れてエネルギーの粒になってしまうのです。学者はこれを光量子と呼んでいますから、光はデジタルなのです。 勿論光を波動として捉えても良いのです。
 この世の現象を固定観念で捉えてはいけません。
斯くしてアナログのチャンピオン光は、デジタルの軍門に降ることになったのです。 
 原子より小さい陽子、中性子、中間子、電子等は光と同じように粒子と波動の両方の性質を合わせ持っているのです。
 さて、最後の、時間と空間はどうなっているのでしょう。時間と空間は絶対的な存在と考えられてきましたが、何れも,延びたり,縮んだりするものと考えられるようになってきました。 有名なアインシュタインの相対性原理によると運動する物体の時間は遅くなったり、重力の働く空間は歪んだものとなるというのです。その最も激しい例はブラックホールと言われるもので、巨大な質量の存在によって、巨大な重力が発生し、近くにある総ての物体(光でさえもこれを)を飲み込んでしまうと言う存在が知られるようになったのです。
 二十世紀になって時間と空間の絶対性が失なわれてきたのですが、それでは時間と空間はアナログなのでしょうかデジタルなのでしょうか。 これは大変興味のある問題です。
 昔の人は、アナログの世界を神の領域として尊重してきたのです。 それを科学はデジタルとして人間の領域に持ち込んできたのです。 神の領域が段々と狭められてきたとは思いませんか。 時間と空間の問題は、神の領域の最後の砦と思われるふしがあるからです。
 このようなことを考えて楽しんでいたら、最近の科学雑誌に時間と空間はデジタルであることがわかって来たという記事を見つけてビックリしたのです。いよいよ人類は神の最後の砦にたどり着くことが出来たかと。たぶん宇宙のデシタル化解析はこれで終わりとなるでしょう。 これで神の領域と人間の領域が定まり、神がどのようにして宇宙を管理しているかが解って来る筈なのです。神の立場に立って物事を考えると宇宙の仕組みも良く見えてくるから楽しいではありませんか。

 時間が、若しデジタルならば、この宇宙はテレビの画面のようなものではありませんか。
テレビの画面は人間の目には連続した絵として映りますが、次々と消えたり,点いたりしているのです。テレビの画面に手をかざして動かしてみるとそれが良くわかります。
 時間と時間に間に測り知ることの出来ない何かが在るのです。あるいはそこに無限の時間があるかもしれないのです。 極端な話が、このデジタル時刻とデジタル時刻の間に神は地球の出来事を総て書き留めたり、あるいは宇宙を作り変えたりすることも出来るかもしれないのです。 天地創造の神に不可能はないのです。神を怖れ、恐れ、畏れましょう。
またこの神が愛の神であることも忘れないようにしましょう。 神は愛を持って宇宙を創り、愛を持って管理しているのです。

 聖書には、恐ろしいことが沢山記してあります。
 神は、貴女の頭髪の毛が何本あるかもごぞんじ。
 紅海の海底に道を作ったこともある。
 太陽の動きを止めたこともある
 など、など
 これらをこの世界の常識に反することとして片ずける自信はありますか。
 私達には科学がどんなに進歩しても神が必要なのです。
寧ろ科学が進歩すればするほど神が必要になると言うべきでしょう。

 卒業生の皆さん卒業おめでとう。
卒業式は延期になりましたが、皆さんの最後までの頑張りによって三名一緒に卒業出来る事になったことは喜ばしいことです。卒業後もこの頑張りを忘れないように、やるべきことは必ずやり遂げるようにしてください。

◎ 為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。
                                  
                                  時任靜吉
平成十六年三月二十日


    
神の存在−U

私達は、何か考えられないような素晴らしいことが起こると「奇跡が起こった」と言って騒ぎます。
 しかし、よく考えて見ましょう。
 私たちの身の回りには、奇跡が満ち溢れているのです。 実のところ、奇跡が当たり前のように起こっていることが正に奇跡なのです。
 私達が生きているということ、これは奇跡以外のなにものでもありません。 空気、水、青空に輝く太陽、緑の草原等など! 正に奇跡なのです。
 物がすべて下に向かって落ちるのを当たり前と思ってはいけません。 宇宙の空間では、物は空中に浮いたままなのです。 重力の存在は、正に奇跡なのです。
 神は、人間に上と下があることを教えるために、物がすべて下に向かって落ちる世界をつくってここに人間を住まわせたのに違いありません。上と下が決まらないと、その他は何も決まらないのです。
 卒業生の皆さん、貴女方は、多くの人々が当たり前と思っていることに、奇跡を感ずることが出来ますか。 皆さんは、中学校は、義務教育で、卒業するのは当たり前と軽く考えているのではありませんか。
皆さんが、中学校を卒業するために如何に多くの人々の縁の下の力持ちがあったか解りますか。 その多くの方々のお陰で中学校卒業が当たり前になって、卒業出来るようになったのです。
 ですから当たり前のことを、当たり前にすることが如何に大切かが解るはずです。
 当たり前に卒業出来ておめでとう。 昔は、中学校卒業は、大変なことであったのです。 中学校を卒業できたことについて、まずご両親に感謝しましょう。 先生方にも、その他多くの方々にも。

 当たり前のことに奇跡を感じ、感謝することこそ、
人間最高の感性の現れなのです。 神が縁の下の力持ちである事に感謝しましょう。
 
 感謝によって神の祝福がありますように。

 平成八年三月十二日
     
 卒業生の皆さんへ       時任靜吉


    写真  プラムビクトリアの花






ミツバアケビの花
 神の存在 そのV・そのW

神の存在−その(V)

日食や月食は、華やかな天体ショウの一つです。
この広大な宇宙空間の中で、月の四百倍(直径)の大きさの太陽が月の四百倍の彼方にあって、地表から見ると同じ大きさに見えるのですから、なんと不思議なことではありませんか。 このようなことを不思議と思う人間こそ価値のある人間と思うのです。
 天体の運行は、非常に正確ですから、日食や月食が何時、何処で起こるかという事を予測出来るのです。 列車の到着時刻のように時々遅れるという事はありません。
 この度も三月九日に予想どうり、月の影が地表に落ちて東アジアとアラスカで日食が起こりました。 シベリア東部では、細長い帯状の地域で皆既日食が見られたのです。
 モンゴルで皆既日食が見られるというので、日本からも観測の人々が多数出掛けました。
日食のために真昼に暗黒の世界が訪れるとすれば、どんな鈍感な人でも、これを感じないという訳にはいきません。
 ところで、このたびの日食では、暗黒の中で、へ−ル・ボップ彗星が肉眼でも見られるとあって、特に人気があったようです。 へ−ル・ボップ彗星は、世紀の大彗星と言われていますから、これからでもお目に掛かれると思います。 昨年現れた大彗星は、発見者の名をとって百武(ヒャクタケ)彗星と名付けられ、多くの写真が取られ、いろいろな研究が出来て話題を呼びましたが、その中で一つ大変興味の湧く話を聞きました。
 彗星は、太陽系の外側の海王星や冥王星の更に外側に存在する、主として氷の塊から出来ている天体で、多数ある中から、太陽の引力などで軌道に乗り、太陽に近づき、また遠ざかって行く天体です。 太陽に近づくと太陽の表面から飛び出す放射で、氷の表面が蒸発し、水蒸気が噴出し、これが長い尾となって所謂「ほうき星」という名が付けられているのです。
 興味ある話とは、この彗星物質の中に重水素が発見されたというのです。 重水素というのは、水素原子の核の中に中性子が入りこんで普通の水素より重い水素となったものです。 科学的には同じ水素ですが、これが酸素と結合すると重水となります。重水は、普通の水の中に混じっていてこれだけを集める事も出来ます。
 地球は、水の惑星とも言われ、他の惑星と比べると、水が多く、これが海を形成して、地球の生物を育てるもとになったと言われています。 
 さて、この地球の水の中には、不思議な事に他の惑星と比べて重水が多く含まれているというのです。 なぜでしょう。
 彗星の氷の中の重水の発見は、地球の水が彗星によって太陽系の外側から運ばれてきたのではないかという考えにつながります。いろいろな点から地球は特別な惑星といわれています。
 さて、もし彗星が遠い太陽系の外側から地球を目指し、地球だけに大量の水を運んで来たのだったらどうでしょう。 夢は広がってゆきます。
 遠い、遠い過去に、氷の塊である大彗星が次々と地球に衝突し、重水を含んだ水を大量に地球に供給した有様が目に見えてきます。 このような偶然があるでしょうか。
 これは、地球に生物を育てようとする神の所業の一つかもしれないのです。 神は地球を特別な星として作り上げ、そこに人間を住まわせたのかもしれません。 有名なノアの洪水は、天上の大量の水の存在を示唆しているのかもしれません。

 卒業生の小川さん、新倉さん、あなた方が時任学園を卒業したのを単なる偶然と思ってはいけません。 必然だったらどうするのですか。

 大切な事に鈍感で、つまらぬ事に敏感なのがこの世の習いなのです。 そのような人にならぬ事を願っています。
 
 神の所業を感じ取り、感謝と思いやりと反省のある人生を送ってほしいのです。

   平成九年 三月
                                  時任静吉

           
                  
たらの芽ー静岡緑

神の存在−その(W)

 何かお手伝いをたのまれたとき、すぐご褒美がほしいという人が居ます。 しかしこれには感心できません。 お手伝いは喜んでするもので、ご褒美はそのお手伝いの価値を低くしてしまうのです。
 何事に付けても、報酬を目的にするとその価値を低くしてしまうのです。
 お手当てがあるから仕事をするというのは、当たり前のようですけれども、お手当てが無くとも仕事をする人が居ます。
 お手当てが無くても仕事をする人が居て、仕事が終わってから、その結果、謝礼としてお手当てをもらったとしましょう。 このような場合、結果は、お手当てをもらったから、同じなのですが、実は、内容をよく見てみると大きな違いがあるのです。
 勤労には、他人のために役立っているという喜び、心地よい疲れ、食欲の増進、心と体の満足という、素晴らしい効用があるのです。 お手当てがその上にプラスされれば、お手当てそのものの価値も増すのです。ですからたいした仕事もせず、嫌々ながらの仕事では、お手当てをもらっても価値は更に低いものとなるのです。
 美味しい栄養のある料理を出されたのに、その美味しい部分、栄養のある部分を残して、
あまり美味しくない部分を食べるようなものです。
 なんでも他人にやってもらって、自分はのうのうと暮らしている人がいるとすれば、その人は真の満足や喜びを味わう事の出来ていない不幸な人だということが出来るのです。
「私にはスポ−ツがあるし、その他楽しい遊びが沢山ある」といっても、これらは勤労の喜びに比べれば、ずうっと程度の低いものであってこのような人は、やがて自分の人生の目的について反省し、空しい人生を後悔する事になるのです。
 さてお手伝いをして、褒められたら、うれしいし、ご褒美を貰ったらもっと嬉しいでしょう。 しかし、何かよいと思われる事をしても誰もほめてくれなかったり、これはよい事と解っていても、誰も認めてくれる人がいない時、それではつまらないから止めてしまうのでしょうか。 
 誰も認めてくれなくとも、褒めてくれなくとも、良いと思われる事の出来る人には、実は、最高のご褒美が待っているのです。
 もう少し解りやすくすると
貴女の背後には、目に見えない採点者が居て、あなたの行動を採点しているのです。この採点者は、貴女にどのようなご褒美を上げようかと採点しているのです。 勿論、よい点を取った人には、良いご褒美をあげるためです。
 もし貴女が、誰の目にも、やっている事がでたらめで、いい加減な仕事をしているのであれば、0点です。 勿論、この場合貴女を褒めてくれたり、ご褒美をくれる人は居ないでしょう。・・・・・・もし居るとすれば、それは悪魔の使いかもしれません。
 次に、貴女は、ご褒美が貰えるというのでお手伝いをして、褒められたとしましょう。
この場合には、せいぜい30点位しか貰えません。
 また貴女が、ご褒美が貰えないかも知れないと解っているのに、お手伝いをして褒められ、結果としてご褒美を貰ったとしましょう。 お父さんも、お母さんも大変喜んで、貴女を良い子だと褒めてくれました。 でも五十点しか貰えません。
 次は、お父さんも、お母さんも忙しくて、貴女の面倒も中々見てもらえません。 しかし、貴女は喜んでお母さんのお手伝いをし、キチンと仕事を片付けます。 しかし、お母さんからも、お父さんからも、お褒めの言葉はありません。 このような時、この厳しい採点者は、はじめて百点をつけるのです。
 この採点者は、誰も褒めてくれる人がいなくとも、ご褒美をくれる人がいなくとも、喜んで仕事をする人によい点をくれるのです。
 人の見ているところでよい事をして皆に褒められ、人の見ていないところで平気で悪い事をしている人には、この採点者は厳しくマイナス点を付けるのです。
 実を言うと、隠れた善行があっても、マスコミなどが取り上げて、褒め称えると、この採点者は、減点するのです。
 人間は愚かですから、このような恐ろしい採点者が居ることに気付いて、はじめて自分の襟を正すのです。
 この採点者こそ、人間の真の幸福を望んでいる者、・・・・・これこそ神というべき存在なのです。
 貴女の心の中に神の座があって、そこに神がいらっしゃれば、貴女はこの採点方法が理解できるのです。
 自分の事は、自分が知っている、最近良心の呵責に耐えかねて、三十年前の殺人を自供した人の記事が新聞に載っていました。
 自分の事は、自分が知っている、しかし自分のことを、自分以上に知っている恐ろしい採点者が、あなたの中に居るのです。

 お父さん、お母さんはいつまでも頼りにはならないのです。 褒めてくれる人が居なくとも、よい仕事の出来る人間、正しく行動できる人間にならなくてはいけません。

 その時褒めてくれるのは、人間ではなくて、神なのです。
 神に褒められる人間になってください。
 神は、存在した方がよいのです。                
                   時任静吉
平成十年三月二十日

卒業生の皆さんへ


 神の存在 そのX・そのY


月の出
神の存在−その(X)

鶏小屋に、鶏の餌を刻む出刃包丁があります。 この出刃包丁は、捨てられてあったものを拾ったもので、研いでみたらよく切れるので、柄を付けて、鶏用として使っているのです。
 鶏の餌を作るのに、新しい高価な出刃包丁を買う気には、一寸なれませんが、拾ったものですから、抵抗無く、鶏用として納まってしまったのです。 今では、この出刃包丁が無いと困るので刃こぼれしないように大切に使っているのです。 
 もしこの出刃包丁が使い物にならなくなったら、新しい出刃包丁を買う気になるでしょう。
 人間の心というのは、不思議なものです。 同じことをするのであっても、抵抗のある場合と、無い場合があるのです。 コンピュ−タ−とは違うのです。
 さて、毎朝毎夕、鶏の餌作りに、この出刃包丁を使いながら時々考えるのです。 こんなよい出刃包丁をどうして捨てたのだろうと。 何か事情があったのかもしれませんが、この人は不精な人(柄を付けるのが面倒)か、物を大切にしない人で、多分感謝の念の薄い人ではないかと。
 また、この包丁を作った人はどんな人だろうかと。 誰が使うか解らぬ包丁を、精魂込めて一生懸命作ったとすれば、大変立派な包丁作りの職人で、この人に感謝の気持ちが湧いてくるのです。 たかが出刃包丁と思ってはいけません。 使いやすい、よく切れるこの出刃包丁を作った人の人柄がしのばれるのです。 そして、この出刃包丁を作った人に会ってみたいと思うのです。 しかし会うすべはありません。
 丁度、会いたいと思っても会えない、神のような、幻の人のことをいろいろ考えるのです。
 人間の作った道具とか機械は、使っているうちに、製作者の心遺いがだんだん解って来て感謝の気持ちが湧いてくるのです。 そして愛用する事になるのです。 ですから愛用していた器械がこわれて、その部品が手に入らないために、使えなくなると悲しくなってしまいます。 二十年も愛用した機械の部品がまだあって、届けられ、その機械が再び使えるようになると本当によかったと嬉しくなるのです。 部品が保管してあった会社をなんと立派な会社だろうと、もう一度感謝の念を持つのです。
 ドイツにはこのような会社が多いようです。 日本には?すくない?悲しいことです。
 人間と人間が、道具や機械を通して、理解し合い、会ったことの無い人でも、心が通じ合い仲良く成れるということが解ります。
 反対に、欠陥商品を買ってしまうと、これをつくった人達は、なんと駄目な人達かと腹が立ってくるのです。
 使い捨てというのもよくありません。 人間の心を荒(すさ)ませる事になるのではないでしょうか。
 さて、さて、大上段に振りかぶって、私達の住んでいるこの自然界について考えましょう。 自分が現に住んでいるこの世界に、何も感じないようではお話になりません。
 この自然界には、住めば住む程、調べれば調べる程、理解すれば理解する程、その素晴らしさ、奥の深さに感嘆させられるのです。
 この素晴らしい自然界に感謝すると共に、一体だれがこのような素晴らしい自然界を作り上げたのかと考えるのです。
 自然界は、自然に出来たので、別にどうということはないというのならば、捨てられていた出刃包丁に何も感じない人と同じなのです。
 最近は、生命科学の進歩によって、いろいろな生物の仕組みが解り、生き物を、人間が作り出せるような状況になってきました。 人間も生物ですから、DNAを組み立て直して、作り出されるようになるかもしれません。 ですから人間の体も作られた物と考えるのは、考えの赴くところごく自然な事なのです。
 それでは、人間をつくったのは一体何者なのでしょうか?
 生物は、無生物から進化し、人間も進化によって作り出されると考え、進化と、自然界の自然の働きによって出来上がると考えるのは、物に感ずる事の無い人の考えることです。 
一輪車と二輪車と三輪車とが転がっている時に、1輪車が二輪車に進化し、二輪車が三輪車に進化したと考えたらおかしな事です。 自転車などが勝手に進化する訳は無いのです。 
 物には、その物の背後に、@それを発案し、Aそれを設計し、Bそれを製作し、Cそれを改良する、目に見えない、何者かが必ず居るのです。 丁度捨てられていた包丁には、必ずそれをつくった人が居るように。 この何者かが重要なのです・・・・・・このほうがずーと自然な考え方ではありませんか。 
 人間も、猿も、何者かによって作られたのです。 この自然界も同様なのです。
 この何者か?が神(創造の神)なのです。
 自然を、自然に出来たのだからと、早い者勝ちで勝手に自分の所有物のように扱ってはいけません。 自然を征服しようなどという感覚の人には、神は存在しないのです。
私達は、自然に調和するのでなければいけません。
 自分の身の廻りを見て感謝の気持ちの湧かないような人には神は無縁なのです。
 「恩を知らぬは禽獣(きんじゅう)に等(ひと)し」とはよく言ったものです。
恩を知らぬもの・・・・・感謝の気持のない者は、とりや、けだものと同じで、人間の資格に欠ける者なのです。

 物を大切にする気持ち、感謝の気持ちこそ、目に見えない神の存在へとつながるのです。

 神は、感謝の気持ちを持つものの頭(こうべ)に宿るのです。

 平成十一年三月                       
                                           時任静吉
 卒業生の皆さんへ

  
                   
三椏の花

神の存在−その(Y)

天と地と、そしてこの全宇宙を創造した神が存在するとすれば、何処に、どのように存在しているのでしょうか。
神の特性の一つは、その一貫性にあり、神は悪魔のような、気まぐれな、そして無責任なことはされないのです。 また神は、善良な方ですから、ご自分が創造されたこの全宇宙を責任を持って末永く面倒見ようとされているに違いないのです。 末永く面倒見ようということは、この全宇宙を管理する方法を持っていらっしゃるに違いないということです。
では、神はどのような方法でこの宇宙を管理しているのでしょうか。 考えて見ましょう。 人間の知識によると、宇宙の大きさは、直径200億光年とか500億光年とか言われていますから、途方も無い大きさです。 光速ロケットで出掛けても宇宙の果てに到達するのに100億年以上もかかることになり、とてもとても人間の寿命では管理など思いも及ばぬことです。 尤も光速ロケットに乗れば,年をとらないかもしれませんから、宇宙の果てには何とかたどり着けるかもしれませんが、地球に帰ってきたら、地球は一体どうなっているのでしょうか。 浦島太郎どころの騒ぎではありません。地球は、膨張した太陽に飲み込まれ、蒸発して無くなっており、膨張して地球を飲み込んだ太陽はその後収縮して、小さく、小さく、更に小さくなっているでしょう。 
そういう訳ですから、神が宇宙を管理しているとすれば、人類の知識では全く考えられない手段を持っていると思わなければなりません。
それでも少々無理をしてでも考えて見ると、空想科学小説では、宇宙旅行するときに、
ワ―プと言う方法を使っています。ワープというのは、遠方にある空間を自分のすぐ傍らに移動させてきて空間に窓を作って、その窓から遠方の空間に乗り移るという方法です。
この方法を使うと光速ロケットではとても出来ない宇宙旅行ができるのです。
 さて、このワープと言う方法を、現人類の最先端の学問で検討を加えると、大変面白いことが解ります。 窓の大きさが小さければ小さいほど可能性が高いのです。 しかし残念なことに、人間がくぐれるような大きさの窓は難しいのです。 それでは窓の大きさは一体どれくらいかと言うと、針の先よりもまだまだ小さい私たちには想像も出来ないような小さな窓で、そのような小さな窓ならば何時でもワ-―プが可能なのです。
 神が宇宙を管理する秘密がここにあるような気がします。 神は肉体を持たぬ霊であると言われています。 霊ならばどんな小さな穴でも潜り抜けられるのではありませんか。
霊は全宇宙に広がっており、神は、何時でも、何処にでも現れることが出来ると言うことになるのです。 丁度原子核の周りを回る電子が高速回転のため雲のように見えるので電子雲といわれ、電子は粒なのか雲なのか解らないのと同じように、神は宇宙を瞬時に駆け巡り(いつもワープ、ワープで)或るときは、霊として、雲のごとく宇宙全体を覆い、必要な場所では留まって、何時でもその力を神として発揮することが出来るのです。 しかし神は人間には見られたことが無いそうです。 神の代理としての天使は、神と同じく宇宙を駆け巡り、何時でも、何処にでも現れて、時には人間の様(さま)になって、その使命を果たしているようです。
 人間の住む空間は、総ての物理現象が光速を超えられぬと言う制約を受けているので宇宙の管理は難しいのですが、このように考えると、霊ならばなんとなく宇宙全体でも管理できるのではないかと言う気がしてきます。
 神は、現在の宇宙を瞬時に見ることが出来るのです。 ですから、100億光年のかなたの状況を、人間には100億年前のことしか見られないのに、神には100億年前から現在までを全部、走馬灯のように見られるのです。
 神は霊であるからこそ宇宙の管理が出来ると言うことになります。
 また、神の霊は、私たちの心のすぐ隣にも存在しているのです。すぐそばにいるのですから、神は、私たちのことは何でもご存知なのです。 私たちが生まれたときのことから、現在まで、必要ならば髪の毛が何本あるかまで、総てのことを走馬灯のようにして視ることが出来るのです。 神は、総てのことをご存知であると聖書にも書いてあります。
 そして祈りも、何時でも神に届くのです。 感謝の祈りに神はすぐに応えられるのです。
神は、容量の非常に大きい大型コンピューターのように全世界の人々の祈りを、瞬時に、同時に、聞いてくださるのです。
 神の存在について少しは解ったでしょうか。神の存在について理解しようと努める事は良いことです。 努力すれば、自分の知識や経験を総動員して努力すれば、神の存在を信ずることが出来るようになるでしょう。
 この世では、何時災難が降りかかるか解らないのです。心の安らぎを得たい人は、神の存在を信じ、神に祈ることです。

何が起こるか解らない恐ろしいこの世に失望したら、神がすぐそばにいるということを思い出してください。 では

   卒業生の皆さん卒業おめでとう

最上さんは大妻嵐山高等学校へ進学することになりましたが、石塚さん、織田さん、森本さん、山宮さんは日本イデア高等学校に進学することになりました。
進路は違っても神の存否は人間一生の問題です、何時も忘れないで下さい。

時任学園では、また道徳の勉強を真面目に続けましょう。
道徳と神の問題は、不可分なのです。

平成十二年三月十六日                       
                                           時任静吉
 卒業生の皆さんへ



 神の存在 そのZ・その[


菊芋
神の存在−その(Z)

悪魔は、神に敵対する悪霊です。
悪魔は、人間と人間の間の愛や信頼を否定し、総てを自己の欲望の満足に充てるべきであるという独自の、神に対抗する理論を作り上げ、人間を神から引き離して、自分が神に代わってこの世を支配しようとしているのです。
悪魔の戦略は、まず嘘をつくことから始まります。 「自分の利益になることならば、たとえ他人が、その為にどのように困ろうとも、嘘をついて通しなさい.嘘を嘘で固めて頑張りなさい。正直を貫き通して損をするなど馬鹿のすることである」
これが悪魔の第一の教えなのです。
ですから、正直の頭(コウベ)に神宿るならば
     不正直の頭に悪魔宿る・・・・・・なのです
私達のこの世は、神の教えと、悪魔の誘いが共存する矛盾した世なのです。
この矛盾した世でどのように生きて行けばよいのかは大変難しい問題なのです。しかし如何に難しくとも、どちらにつくかは自分で決めなければならないのです。
今の世で、神宿る頭と 悪魔宿る頭は、どちらが多いのでしょうか。
悪魔宿る頭が圧倒的に多いのです。

先日、自分の生んだ子供を捨てたという事件がありました。
なぜ捨てたかというと、「子供が邪魔で自分のやりたいことが出来ないと言うのです」
このような親を褒める人はいないでしょう。・・・・・悪魔もこの親を褒めたりはしないのですー何故か分かりますか-−悪魔の評判が落ちるからです・・・・・・
 しかしこの問題をよく検討してみると、この事件は私達のものの考え方の根底に横たわる重要な問題を含んでいるのです。
 まず、その考え方は、自分以外は、総て他人であって、自分の生んだ赤ん坊であっても例外ではないというのです。
 親と子の関係は、普通は、親の愛、つまり無償の愛によって結ばれているのです。これを否定して、子供が親の為になるかどうか、つまり親の利益になるかどうかによって判断し、親と子の関係の結論を出しているということです。
 親が子供を育てるのは、将来親が子供に面倒見てもらうことを期待して育てるのではなく、結果はどうあろうと、親は子供を愛するがゆえに育てるのです。
 ところが、親が将来子供に面倒を見てもらうことを期待して子供を育てるとすれば、どうでしょうか、これでは少し怪しくなってきます。これでは無償の愛とはいえないのです。
何故ならば、子供が親の役に立たないと分かったときに、親は子供を育てるのをやめるかもしれないからです。
 無償の愛を持って親は子供を育て、結果として子供はその愛を感じて、無償の愛を持って老いた親の面倒を看、また自分の子を無償の愛を持って育てるのです。
このような親と子の関係にこそ神の祝福が在り、悪魔のつけ入る隙がないのです。
親が将来子供に面倒を見てもらうことを期待して子供を育て、子供が成人してから、結果として老いた親の面倒を看たとすれば、結果は同じように見えても、その内容は全然違うと言わなければなりません。 ここが非常に重要な点なのです。
 「無償の愛など何の得にもならない、つまらぬ教えではありませんか。一人の子供を成人させるまでに,一体どれくらいのお金が掛かると思っているのですか、20年間独身でおれば3000万円くらい貯金が出来るじゃないですか。子供を育てるなんてなんて馬鹿らしい」
となれば、これはもう完全に悪魔の理論に嵌まっているということになります。

 悪魔は色々な手を使って、悪魔の理論を人々に広め、実行させており、さらに神の教えを実行している人達にまで手を伸ばし、総ての人に、それぞれの状況に応じて,罠を仕掛け,罠に落とし、神など居ない、と思わせようとしているのです。
 悪魔は力のある、諸々の悪霊の総大将で、頭が抜群に良い、策略の天才なのですから、用心深くないと罠に掛かるのです。
皆さんも、社会で独り立ちするようになったら、用心の上にも用心を重ねて、悪魔の罠に掛からないよう、注意深く生きて行かねばなりません。

先日、video-鑑賞の時間に、大草原の小さな家の「夢見る町」を見たでしょう。
チャールズ・インガルスとその妻キャロラインは、神を信じ、3人の子供をしっかり教育し、助け合って生きてきた、判断の正しい頼もしい夫婦でした。それが悪魔の罠にはまってしまったのです。全財産を失い、路頭に迷うことになりそうだったのです。
原因はおじの遺産相続。莫大な遺産がインガルス家に転がり込むとあって、町中の人がおかしくなったのです。親友のガーベイは、チャールズを敬遠して遠ざかり、オルソン婦人は、何時ものごとく悪魔の手先として走り回り、チャールズと、そしてキャロラインまでも陥れたのです。
この事件で忘れてならないのは、このインガルス一家の危機を救ったのは、真の友人達であったということです。

お金には魔力が潜んでいるのです。たとえ本人がしっかりしていても、周りの人々が問題を起こすのです。覚えておいて下さい。大金が入ったときに近づいてくる人は危険な好ましからざる人達なのです。真の友人は反って遠ざかって行くのです。
悪魔は、人間を、罠に陥れて自暴自棄にさせ、「神など居ない」と叫ばせ、神を呪い、神から離れてゆくようにしているのです。
悪魔の罠は、金、物、名誉、色、その他の諸々の欲、そして時には高級な理論、人間の弱点を巧みに利用して仕掛けられ、ありとあらゆる手を使うので、余程しっかりしていないと罠に嵌ってしまうのです。天使に化けて近寄って来ることもあるので決して油断は出来ないのです。キリストでさえ悪魔に試されたのです。
悪魔はキリストに「私の言うことを聞いたら、この世を総て貴方に上げましょう」と言って罠に嵌めようとしたのです。 キリストは、即座に罠を見破ったのです。

さて、先日音楽室の黒板にお金に関する落書きを見つけました。書いたのは今年の卒業生の一人のようです。その中に曰く「かね、かね、かね、お金が欲しい、お金があれば何でも手に入る、お金があれば幸せは後からついて来る」と・・・・・
お金は、この世では、生きて行くために必要なものです。大切に使うべきです。
しかしお金が余分にあると人間碌なことを考えないのです。そして悪魔の罠に嵌るのです。
お金があれば何でも出来ると思うのは間違いです。お金で買えないものもあるし、お金があるために反って不幸になる場合も多いのです。思いがけない大金が入ったときこそ落ち着いて悪魔の罠に嵌らぬよう十分に気を付けるべきです。
 余分なお金は、時任学園に寄付することです。これが悪魔の罠に嵌らぬ無難な方法でしょう。(これは冗談です)
 
恐ろしいこの世ですが,未来は悪魔の支配する暗黒の世ではないのです。
やがて神は悪魔を追放し、明るい、新しい世が始まるのです。
その時、人々は愛と、真実と、信頼関係に目覚めるのです。

 今の世であっても、人々が絶対嘘をつかなくなったら、まず泥棒が居なくなるでしょう。
そうすると、お巡りさんが要らなくなり、警察、裁判所、検事、判事がみんな要らなくなるのです。政府の役人や国会議員もそして膨大な組織が次々と縮小されてゆくでしょう。
国と国との信頼関係も改善されて、戦争もなくなり、軍隊も必要なくなるでしょう。従って私たちの税金は、殆ど人類の福祉に廻すことが出来るようになるのです。私達の嘘をつく習慣がどんなに多くの損失を招いているか理解しなければいけないのです。

 ではこの辺で、さようなら、卒業後も時々学校に顔を見せに来てください。
学校から離れても、人間如何に生きるべきかと言うことを常に忘れないように。

   平成十三年三月十七日
                                    時任靜吉
  卒業生の皆さんへ


       
                      露草の花

神の存在−その([)

人間何時死ぬのか、誰にも解らないのです。
病気の人は、病気が原因で、健康な人であっても、交通事故が原因で。
それ故に、死は不幸なことで、生は幸せなことであるとすれば、人間の幸せは、その人の心の持ち様で決まるのです。
 何時死ぬのか分からぬのであれば、明日おも知れぬ命なのです。
 死ぬのが当たり前で、生きていることが奇跡と分かれば、一日一日が新しく、朝目を覚まして、もし生きていて、元気であれば、こんな幸せなことはない筈なのです。 それなのに殆ど多くの人は、平均寿命80余才の時代に、何で私はその前に死ぬのか、私は不幸だと考えてしまうのです。
 日々生きていることに感謝できる人こそ幸せな人なのです。このような人は何時死んでもそれまでの人生を感謝して死んで行ける人なのです。
 人間に生きる権利などないのです。もし有るとすればそれは人間対人間社会についてのことであって話は全く別なことになります。
 天地創造の神に対して、生きる権利を主張できる人などいる訳はないのです。
神を信じない人なら何と言うのでしょうか。
 私達の身の回りの物は総て神からの借り物であって、命さえも生かさせてもらっている
というところの借り物なのです。
 いつも道徳の時間に生と死の話をしている時任先生が、実は,医師に死を予告されて、
愚かにも愕然とし、『しまった』と狼狽えたのです。 まだ死ぬとは思っていなかったのです。 色々な思いが頭を過ぎります。『死ぬのは怖くない、しかし色々なものを抱えすぎている。時任学園はどうなるのか、生徒、先生方、その他色々』
 「一体何日生きられるのか、二ヶ月か、三ヶ月か、半年か」と言う質問に、『それは分からない、原因不明の病気、とにかく心臓が非常に弱っている。重症であり、危険であり、何時何が起こるか分からない。この病気は一時的に良くなることはあっても段々悪くなる。
これ以上悪くならないよう治療するしかない。βブロックという薬がある。しかしこの薬は副作用が心配なので入院してテストしてみないと使えない。テストのため一ヶ月の入院が必要です。最後の手は心臓移植しかない』と医師は答えたのです。
 このような状況の下で時任先生は天地創造の神に祈ったのです。
『主治医は原因不明と言っていますが、他の専門医はーこの前亡くなった小渕首相と症状が似ている−と言っていますので私にも心当たりがあります。原因は過労とストレス、
それと食べ物にも問題があったと思います。私の不注意からこのような病気になったことを深く反省しています。どうか私の命を今しばらく延ばしてください。しかしそれも叶わぬことならばどうか御心のままになさってください。今迄生きながらえてくることが出来ましたことに深く感謝しております』と。
 お祈りをして落ち着いたところで現状をよく分析し、対策を立ててみました。
よく考えて見ますと主治医の診断には色々と納得のいかないことがあるということが解ってきました。まず患者の自覚症状を重視していないのではないかということ、次に検査のデーターの扱い方が偏っているのではないかということ、また経験不足で総合的な判断に欠け、自分の判断に従わぬ患者を説得するだけの力量が無いのではないか等です。それでこの主治医の患者になるのは危険だと思ったのです。
 身体に負担をかける行動は、この際危険であるということを重々承知の上で体調に注意しつつ、自分の勉強を兼ねて他の医者の意見を聞いて歩いたのです。
 結局、その他五人の医者に、見解を聞き、診察を受けて、色々なことが分かってきたのです。これらの医者の見解をまとめ、自分の考えを加えて、医師の診断はどのように在ろうと、自分の身体は自分が一番良く知っている。この病気は必ず良くなると確信を持つことが出来たのです。
 まだ最終的な結論は出ていませんが、6ヵ月後の検査の結果は、かなり良いもので自分の判断が正しいと思えるものになっていたのです。

 この度の時任先生の病気の話を全部書き出したら本が一冊出来上がってしまうでしょう。
 卒業生の皆さんこの記事から何かを読み取ってください。

 今年の卒業生は、時任先生にとっても思い出深い卒業生となるでしょう。
 五十嵐さんが文集へのメッセージをお願いしますと言ってきたのに「うーん間に合わない」と言ってしまったのです。五十嵐さんは悲しそうな顔をして「原稿が出来たら打ってあげますよ」と言ってくれたのです。これはいかん何としてでも間に合わせなくてはと原稿なしで打ったのです、

 卒業生の皆さん卒業おめでとう。これからも時々学校へ顔見せに来てください。

 平成十四年三月六日
                                            時任靜吉


 神の存在 その\・その]

                     ゆすらうめの花
神の存在−その(\)

「世界に誇るべき日本の野生やまゆり」
やまゆりは、百合の王者と言われていますが、野生なのです。
 近頃の草花は、大輪、豪華で美しい花の殆どが人間の手の加わった所謂人口の交配種なのです。
 百合の場合、やまゆりは、野生でありながらその花の数、美しさ、大きさ、豪華さ、そして香りの強さ、何れをとっても改良した百合を凌ぎ、王者の風格十分なのです。
 私も時任学園建設に当たってこのやまゆりと出会い、その素晴らしさに感嘆した者の1人です。6号棟を建設して後、初夏に、藪の中、通路の両側に次々とやまゆりの花が顔を出したのです。 恰も時任学園の出現を祝福し歓迎するが如く。
 その時、校地の造成を業者に任せないでよかったとつくづく思いました。 もし校地の造成を自分でやらなかったら、やまゆりには気付かなかったかもしれないのです。 
また、土地の造成を業者に任せていたらどうなっていたでしょうか。林地開発の業者のやり方というのは、立ち木を伐採した後、先ず大きな穴を掘って、地下深いところから草や木の根の含まれない赤土を掘り出し、この穴に地表の黒い土(表土)を掻き取って全部入れてしまうのです。その上に地下から掘り出した赤土を敷いて、「はい造成完了」ということになるのです。見た目にはきれいな造成地が出来上がっていますが、さて恐ろしいことが行われていることに気がつくでしょう。何十年、何百年もかかって生成された表土が失われてしまったのです。そしてこの表土の中には百合の球根のみならず、その他のあらゆる植物、動物までも含まれているのです。 斯くしてやまゆりは、地表の木の根と共に全滅していたことでしょう。 赤い土の造成地は、悲しいことに人間の罪深さの一端の象徴なのです。しかし、時任学園には黒い表土が残っていることに注目してください。
時任学園設置後、近頃のこと、やまゆりの花がぐっと減ってきたようで大変残念です
地元にはやまゆりの球根を掘り採って食用にしている人も居り、車で遊びに来る人の中にはこれ幸いと切り取って持ち帰る人も居るのです。
 やまゆりは印旛村の村花だそうです。先年、村議会で「やまゆりを増やそう。やまゆりの球根を無料で村民に配ったらどうか」言う提案があったと言うことです。 しかしこの案は立ち消えになったそうです。 村長が「栽培が難しいから駄目だ」と言ったそうです。
それに配られた球根を大きく育てて食べてしまう人が居るかもしれません。 やまゆりを増やすのは大変難しいのです。
 時任学園の敷地でやまゆりが咲いているところを思い出してください。 殆どが藪の中でしょう。 開墾した畑に球根を植えても2−3年しかもたないのです。
 厨房の外にあるやまゆりと管理棟の東側にあるやまゆりは例外のようなものです。あのやまゆりは植えたものではないのです。
私にはこの場所に球根を植えた記憶はありません。 表土に残っていた球根がいつの間にか育って花を咲かせるまでになったものと思います。花が咲き出してからもう6年になりますェA年々花の数を増やして素晴らしいやまゆりになっています。 願わくはこの株の消えることのないように ! ただ残念ながらやまゆりの株はなかなか増えないのです。
 食堂に飾ってある写真のやまゆりは、洗濯場の入口で花を沢山付けていたものです。
子供を増やそうと思って球根を掘り上げてみたら、なんと土の中から小さな可愛らしい球根がいっぱい出てきたのです。  これはしめた ! 増やせると思って畑に大切に植えたのですが、花をつけたのはたったの一本だけ、それも次の年には消えてしまったのです。
親株はその場に丁寧に植えたのに2株に分裂した後、花を1つつけ、悲しいかな翌年消えたのです。
 やまゆりは、人のめったに入らない山野の中で花を咲かせ、子供を育てるのです。藪の
小徑で可愛らしく花を咲かせたやまゆりの子供たちは,心ない人々の手慰めに遭って、
苦労して咲かせた花は1輪のうちに大切な葉と共に切り取られ、更に運の悪いときには球根まで掘り取られ食べられてしまうのです。
 それで、やまゆりは人間に見つからないところで静かに花を咲かせ繁殖するのです。 
人の見ていないところで素晴らしい花を咲かせるのが、やまゆりの素晴らしいところなのです。やまゆりを理解する人が増えないとやまゆりは絶滅するかもしれません。

 やまゆりよ あなたは その素晴らしい装いを 誰に見てもらいたいのか
 それは この私を 創造された方
 人間が この私を 見てくれなくとも
 創造主の命に従い 毎年 花を咲かせるのです それが私の務めであり 幸せ
 
わたくしは やまゆりの花の背後に 創造主を視るのです

 昔々今から約三千年も前のこと、イスラエルの国にソロモンという英知に溢れた王が君臨し、神の祝福を得て、国は繁栄を極め、周辺の国々の王は、ソロモン王の知恵を聞きに
貢物を持って挨拶にやってきたと言われています。
また、新約聖書マタイ伝第六章二十八節、二十九節には次のように記されています。
[マタイはキリストの直弟子の一人であり新約聖書の執筆者の一人でもあります。野の百合についてのキリストの教えは有名です。]
 
28 また、衣服のことで、なぜ思い煩っているのですか。野のゆりから、それがどのように育っているか、教訓をえなさい。労したり、紡いだりはしません。
29 しかしあなた方に言いますが、栄光を極めたソロモンでさえ、これらの一つほどにも装ってはいませんでした。

英文では・・・ここで一寸英文和訳の勉強をしましょう

28 Also, on the matter of clothing, why are you anxious? Take a lesson from the lilies
of the field, how they are growing ; they do not toil, nor do they spin;
29 but I say to you that not even Solomon in all his glory was arrayed as one of these.

独文では・・・ここで一寸独文和訳の勉強をしましょう

28 Auch hinsichtlich der Kleidung, weshalb macht ihr euch Sorgen? Lernt eine Lection
Von den Lilien des Feldes, wie sie wachsen; sie muhen sich nicht ab, noch spinnen sie;
29 doch sage ich euch, datz nicht einmal Salomo in all seiner Herrlichkeit wie eine von
diesen bekleidet war.
 
このように野生の百合は、神の祝福を受けた
 人生の手本とすべき植物なのです。

「ソロモンの栄華も野の一輪の百合にしかず」

卒業生の皆さん卒業おめでとう。
時任学園が神の祝福を受けたやまゆりに囲まれていることを誇りにしましょう。
そうすると時任学園は。神の祝福に包まれているかもしれないのです。尤も神は宇宙全体を包み込んでいるのですから同じことになりますが、濃度が高いと考えたらどうでしょうか。そうすると時任学園の周りには普通の場所よりも神の目が多いということになります。
生徒も先生も、みんなしっかりしなければいけないのです。
皆さんは6年間も時任学園のやまゆりに親しんできた卒業生ではありませんか
やまゆりの装いの美しさとその生き様の素晴らしさを理解し、これからの人生の指針の一つにして欲しいのです。
                          では さようなら

 平成十五年三月五日
                                  時任靜吉


神の存在 その] 1月掲載予定・・・お詫び
容量オーバーの為神の存在 そのT を削除し、
 そこへ その] を挿入しました。
 そのT は教育方針のnextにあります。05/1/2



yamayuriの写真ー厨房の東側の花


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